武内宿禰の正体とは?浦島太郎にあり?

正統竹内文書

5代の天皇に仕えた忠臣

古代の天皇に仕えた忠臣武内宿禰、日本の諸葛亮公明、武内宿禰。 武内宿禰とは、古代朝廷における伝説的な忠臣で、第十二代景行天皇から第十六代仁徳天皇にまで仕えたと言われます。 古代に渡って天皇の側近を務めた彼は、よほど天皇の信任が厚かったのでしょう、様々な逸話が残されています。

武内宿禰が最初に仕えたのは、第十二代景行天皇でした。 天皇に命じられて、北陸と東北に視察に出かけた武内宿禰は、都に帰ってすぐ、蝦夷を討つべきです、と天皇に信言。 景行天皇は武内宿禰の信言に従い、王子であったヤマトタケルに命じて、蝦夷を討伐し、支配地域の拡大に成功。

おそらくは武内宿禰の視察によるスパイ活動が戦火に貢献したことにより、天皇の武内宿禰に対する信頼は絶対的なものとなりました。 景行天皇の奉行後、武内宿禰は第十三代成務天皇にも仕えることとなり、この時武内宿禰は日本史上初の大臣の職を拝命。 ちなみに須久根と成務天皇の誕生日は同じ月日だったとされ、それゆえ天皇は一層武内宿禰を長愛されたそうです。

その後、第十四代仲哀天皇にも引き続き信任された須久根でしたが、むしろ神宮皇后の代になって、須久根の伝説が一気に花開きます。 神宮皇后の白城遠征において須久根は皇后を補佐し、貴策重王に敵軍を翻弄し、日本軍を大勝利へと導きました。

また忠愛天皇の奉行の隙を伺って、鹿児坂・押熊の両王子が天皇の位につかんと策謀し、クーデターを行った際にも、須久根は頭脳戦により見事に反乱を阻止したのです。 須久根が神宮皇后を助けた逸話だけ聞くと、中国の司書・三国志に出てくるくだらの名軍師、諸葛亮孝明のような印象を受けます。

須久根と諸葛亮孝明との類似性は、何も内政や軍事の手腕だけでなく、神秘的な逸話の点でも見られます。 例えば神宮皇后の逸話には、現在で言うところのシャーマニズム的なものが多く存在し、神の託せんを受ける巫女としての顔を持っていましたが、須久根は神宮皇后が神がかりする際の補佐役としても活躍し、時には皇后に宿った神自らが須久根を指名したりもしました。

それだけではなく、福岡県において開婚事業を行った時には、どうしても人の手では覗けられなかった大岩を念力で打ち張ったなど超人的な逸話もあります。 その後第十五代王神天皇にも使え、多くの寅人を招き入れ、蘇我氏など有力氏族の多くが、彼を祖とするようになりました。

ただ日本書紀の記録によると、須久根に対し少なからずの嫉妬していた人物がいたようで、彼の弟だった馬仕打ちの須久根もその一人。 天皇に残言し、兄を追い落とそうとしましたが、逆に破れ、奴隷の身分に落とされました。 この頃から須久根の映画も限りを見せ始め、第十六代忍徳天皇にも使えたようですが、何も持跡もなく、これを最後に須久根の記述は途絶えています。

須久根の最後もとても儚いもので、稲葉の国、現在の鳥取県に下降したおり、宇部という地において、履物だけ残して突然と消えてしまったとされ、鳥取県鳥取市の宇倍神社の境内には、履物を置いていった僧侶石という霊石が今も祀られています。

竹内文書と武内宿禰

ここまで述べたように、彼は後代の天皇に仕え重用されたのですが、その在任期間は優に二百年を超え、武内宿禰はなんと三百六十歳以上の長寿を保ったといわれます。 このため、佐賀県の武雄神社では、武内宿禰は長寿と認知症予防の神様として祀られています。

二百年以上にわたり、現役の政治家として後代の天皇に仕え、三百六十歳以上の長寿を誇った人物と聞いて、素直に信じられないのが現代人。 おそらくは、武内宿禰という世襲の一族が、代々武内宿禰を引き継いでいたのだろうという説があります。

この意見を裏付けるかのように、武内宿禰の後継者である竹内睦泰さんによれば、初代武内宿禰から伝わる句伝を子供たちに伝えられます。 そうして代々武内宿禰という、いわば野豪を継承し、第73代目武内宿禰こと竹内睦泰さんが、最近までご存命でした。

武内宿禰の逸話を聞くと、まさに日本版の諸葛亮孔明といって、武内宿禰とは異なります。 この意見を裏付けるかのように、代々武内宿禰から伝わる句伝を子供たちに伝えられます。

稀代の謀反人武内宿禰

先ほどまで古代の天皇に仕えた忠臣であり、日本版の諸葛亮功名とまで絶賛された武内宿禰ですが、これは日本書紀によって創作された武内宿禰像という説があります。 古代出雲王家の句伝によれば、武内宿禰が生きたのは紀元3世紀、卑弥呼の時代だったそうです。

当時、九州では諸延氏が築いた王国と、卑弥呼が手を組んで大和王国に東征を試みたそうです。 武内宿禰は大和王家と諸延氏の血を受け継ぐ者として、紀伊の国、現在の和歌山県で生まれ、当初は九州側に味方して、卑弥呼のため中国の義に使者として赴き、道教をもって帰国。 しかし彼に嫉妬した卑弥呼は、義王に対し、武内宿禰には侵害を与えないようにと頼み、彼に地位を与えなかったのです。

これに不満を持った武内宿禰は大和王国に寝返ったのですが、九州の連合軍により大和王国は滅ぼされ、その大王と共に武内宿禰は稲葉の国に追われました。 武内宿禰は大和の最後の大王を守っていましたが、諸延の刺客に襲われ、靴も履かずに西の出雲王国まで逃げたそうです。

ここで語られる武内宿禰は風見鶏のように、フラフラと情けない人物像で出雲王家に亡命したことにより、日本書紀でヒーローとして描かれるようになったのです。 古代出雲王家の口伝では、まだ可愛げのある武内宿禰ですが、住吉大社神代記によると、皇室を乗っ取った旗台の謀反人の横顔を覗かせます。 この記録によると、福岡県の香椎宮で仲哀天皇が崩御された時、神功皇后は住吉大神と夫婦の営みを交わしたそうです。

この時、武内宿禰は住吉大神と神宮皇后の近くにいたそうですが、普通に考えてこれは、皇后の相手は武内宿禰だったことを指します。 結果、神宮皇后は応神天皇を身籠り、応神天皇の実父は武内宿禰となるので、彼は皇室を乗っ取った世紀の大悪人といえます。

実際、大阪府の住吉大社よりも、創建の古い山口県下関市の住吉神社では、住吉三神と共に神宮皇后と応神天皇、そして夫の仲哀天皇ではなく、武内宿禰が御祭神として祀られています。 このことは応神天皇が神宮皇后と武内宿禰との間に生まれた状況証拠だといえそうです。

もしこれが真実なら、武内宿禰が政権の座に長く留まることができた理由にもつながり、行方不明になった彼の最後も、その悪事が原因で闇に葬られたという暗示なのかもしれません。 どうやらこの辺りに、武内宿禰の正体の秘密が隠されていそうなので、もう少し深掘りしてみましょう。

ルーツはユダヤ人?栄華を極める武内宿禰

日本人の祖先は、2700年前にアッシリア人により追放されたイスラエルの失われた10支族の一つである、これがいわゆる日ユ同祖論です。 なんと武内宿禰もユダヤ人だったと言う説があります。

また、第73代武内宿禰の竹内睦泰さんによると、サルタヒコはイエス・キリストだった、と語っておられました。 いわゆる古史古伝の中に、竹内文書というものがありますが、その方の家系には、正統竹内文書というものが伝わっており、現在世に出回っている竹内文書は内容的に正しくないそうです。

そして正統竹内文書によると、イエス・キリストはゴルゴタの丘で処刑されず、日本の青森県の戸来村に逃げ延び、ウズメとともに故郷である伊勢の五十鈴川上流へと帰っていったといいます。 またサルタヒコは天狗の子祖とされますが、天狗の容貌がユダヤ人にそっくりで、衣装もユダヤの伝統衣装にそっくりな点も、ユダヤ人だったイエス・キリストに端を発するそうです。

別の古史古伝の代表格ともいえる、宮下文書では、大国主の弟がサルタヒコであり、軍神としてアマテラス大神側に参陣し、武訓を挙げ、サルタヒコの女系の子孫が武内宿禰だったと述べており、出雲王朝と富士王朝の縁者として大和政権中枢部に食い込んでいったといわれます。

様々な古史古伝において語られる武内宿禰の正体ですが、その真実に迫るため、武内宿禰が活躍し始めたのはいつ頃からか、もう一度確認すると神宮皇后の時代になってからといえます。

その神功皇后が政権の表舞台に立つのは、夫である仲哀天皇の崩御後からですが、仲哀天皇がいかにしてこの世を去ったのかというと、住吉大神のお告げを疑い、神を謗る発言をしたため、「お前の治める国はなし」と住吉大神はお怒りになり、天罰を受けて崩御したと日本書紀は記録します。

その後住吉大神と神宮皇后は交わり、武内宿禰は皇后を助けて、戦争に内政にその手腕を発揮。住吉大神と皇后の間に応神天皇が生まれ、武内宿禰は応神天皇にも仕え奉ますが、その政治的な支配力に陰りも見えだしたのもこの頃だと紹介しました。 この史実に流れを素直に解釈すれば、祖父の代から仕えてきた武内宿禰と仲哀天皇との間で不和が生じた、そのことを住吉大神のお告げを天皇が疑い、逆に神を謗ったと表現したのではないでしょうか。

武内宿禰は応神天皇の代に渡来人たちを多数招き入れたことから海外との強いパイプを持っていたのでしょう。海外とのコネクションに航海技術は欠かせないことから、航海の神である住吉大神とは武内宿禰であると言えます。 天皇以上の実力者である武内宿禰と、それに反発した仲哀天皇、武内宿禰を解任しようとする天皇の勅令が発せられる前に、武内宿禰のクーデターが成功し、天皇はこの世を去りました。

寄る辺を失った神功皇后は流されるまま武内宿禰と肌を交わし、応神天皇を見ごもった。神功皇后は白城との戦争に大勝利し帰国するも、仲哀天皇の死に不信を抱いた香坂、忍熊の両皇子が真相に気づいて弔い合戦を仕掛けましたが返り討ちに、 これにより名実共に朝廷のトップに立った武内宿禰は、裏から神功皇后を操り、この世の栄華を思いのままにします。

しかしそんな武内宿禰も応神天皇の代になって、権力に限りが見えてきました。 王陣天皇は神宮皇后と武内宿禰の不義の子である、といういかがわしい噂を払拭するため、息子が父を排除しようと試みた。そんなドラマが天皇と武内宿禰の間で垣間見えます。

天皇にとっては、叔父にあたる甘美内宿禰と手を組んで、実験を取り戻そうとした応神天皇でしたが、それも失敗。次の仁徳天皇の代になって、ついに武内宿禰の地位を奪うことに成功したのでしょう。この武内宿禰の一大旗を記したのが、童話「浦島太郎」だったと思われます。

童話・浦島太郎は武内宿禰の一代記だった。

助けた亀に連れられて行った竜宮城で、乙姫と楽しく過ごした3年の月日は、地上の現世では300年の月日が経っており、それに絶望した浦島太郎が玉手箱を開けると、中から煙が出て、見る見るうちに老人の姿に変わった。 これが浦島太郎の童話の内容です。

この童話を解釈すると、浦島太郎が助けた、いじめられていた亀とは、秦の始皇帝の子孫を名乗っていた秦氏、もしくはシルクロードを伝ってやってきた、失われたイスラエルの10支族だったと考えます。 どちらも故国を追われた点、そして優れた航海技術を持っていた点が、いじめられていた亀と重なるからです。

亀に連れられ竜宮城に行き、乙姫と仲睦まじく暮らしたとは、海外の勢力と手を結ぶことで、まんまと朝廷の権力を手に入れ、神宮皇后の夫の地位に収まったことを示しています。 浦島太郎が竜宮城を立ち去るシーンは、武内宿禰が因幡の国へ下向したことを表すのでしょう。

その地で玉手箱を開けたというのは、「武内宿禰を大臣職から解任する」という、仁徳天皇の勅書が入った箱の中身を読んだ武内宿禰が、地位も権力も奪われ、ただの哀れな老人の姿になったことを表します。 300年以上の月日が経っていたという記述は、浦島太郎の物語は、300歳以上の長寿を誇った武内宿禰の暗喩なのでしょう。

史実では、武内宿禰は履物だけ残し行方不明になったとありますが、三国志の英雄曹操と、その後身だった荀彧の姿と重なります。 義の国王曹操は、不仲になった荀彧への見舞いとして箱を送ります。荀彧がその箱を開けると中身は空っぽで、聡明な荀彧はそれを、お前はもう用済みだの意味だと悟って、毒を飲んでこの世を去りました。

武内宿禰が履物だけを残して行方不明になったとは、権力を失い、自らこの世を去った武内宿禰の最後だったのでしょう。 武内宿禰の正体、それは権力を簒奪し、この世の栄華を味わい尽くし、最後には非業の死を遂げた一人の梟雄であり、武内宿禰の一代記が浦島太郎の物語だったのです。 いかがでしたでしょうか?今回は武内宿禰の正体を考察しました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました