『正統竹内文書』が伝える『桃太郎』の真実に迫る!あのおとぎ話は実話だった?

ご存知でしょうか?太古から秘密裏に伝えられてきた極秘口伝・正統竹内文書には、日本の有名なおとぎ話のいくつかが実話だと記されているんです。驚きですよね。実は、正統竹内文書の伝承者・竹内睦泰さんによれば、桃太郎の話も実話だったということなんです。そこで今回は、桃太郎の話の元になったストーリーについて、詳しく解説していきたいと思います。

おとぎ話桃太郎とその諸説

桃太郎の物語は、皆さんご存じの通り、おじいさんとおばあさんが川で拾った桃から生まれた元気な男の子が、悪い鬼たちを退治するために奮闘するというストーリーです。しかし、この物語には実はいくつかのバリエーションが存在していることはご存じでしょうか。

たとえば、桃から生まれたのではなく、桃を食べたおじいさんとおばあさんが若返り、子作りをした結果生まれたのが桃太郎だというパターンもあります。また、子供がいない夫婦が神に祈った結果、子供が生まれたとするストーリーもあるのです。

さらに、桃太郎は一般的には実直な男子として描かれていますが、大きくて力持ちには育つものの怠け者で寝てばかりいたという話もあります。そうなると、怠け者の桃太郎が鬼退治に行く理由も一攫千金を狙って鬼を襲撃したような感じになります。

実際、文豪・芥川龍之介が書いた桃太郎の話では、怠け者の桃太郎が略奪者のように描かれています。そのようなバリエーションが存在することは、意外だと思われるかもしれませんね。

このように、ある物語が語り継がれる過程で、様々なバリエーションが生まれたり、異なる解釈がされたりすることは珍しくありません。歴史や時代背景、地域性などによって、物語がどのように変化していったのか、興味深く考えることができます。

桃太郎の物語がどのように変遷してきたのか、さらに詳しく調べることで、日本古来の物語の面白さや、その根底にある文化的価値をより深く理解することができるでしょう。

桃太郎の元となった出来事

桃太郎の話には、古事記のストーリーが元になっているという説があると言われています。それは、大岐別彦の御事による吉備の国平定の話です。当時、黄陽では、温羅という一族が鬼ノ城という城に住んで、その地域を荒らし回っていました。この吉備の国は、現在の岡山県辺りです。

そこへ大吉備津日子の御事という人物が、3人の家来と共に討伐に来ました。この3人の家来は、犬飼健(いぬかいたける)、楽々森彦(ささもりひこ)、留玉臣(とめたまおみ)と呼ばれていました。実は、大吉備津日子は皇族で、第7代天皇である皇霊天皇の息子でした。大岐別彦の御事は、見事に温羅を打ち破り、そのたたりを鎮めるために、温羅の首を吉備津神社の窯の下に封じました。確かに、温羅という名前が鬼っぽくて、3人の家来を連れて来たところなどは似ていますね。

桃太郎の起源と正統竹内文書

そして、正統竹内文書の伝承者である竹内睦泰さんもこのストーリーが桃太郎の源流になっていると言っています。ただし、細かい部分では結構違うところがあるので、順に説明していきましょう。

まず、時代背景について簡単に説明します。この大岐別彦の御事による黄陽の国平定が行われる前の時代です。第四代の懿徳天皇の時代に、大規模な農業改革が行われた結果、大和の国では米が安定して生産できるようになり、豊かになりました。しかし、そのせいで、貧しい周辺諸国から頻繁に攻められるようになりました。そして、次の第五代の孝元天皇の時代から戦乱の世の中になってしまいました。その相手の一つが吉備の国でした。

この当時、瀬戸内地方には多数の高地性集落が存在していたことが、考古学でもわかっています。通常、稲作は平地で行われますが、高地に水田を作るのは難しいでしょう。それにもかかわらず、高地性の集落が多かったことから、稲作や日常生活の便利さを犠牲にして、軍事防衛機能が重視されていたことがわかります。つまり、戦争状態にあったということです。

実際に、この高地性集落では、呪文を焚いた跡や石の矢尻などの武器が見つかっているんです。そして、この黄備の国には、日本で4番目に大きな作り山古墳があります。これを見るだけでも、吉備の国の国力がいかに大きかったかがわかるでしょう。それだけに、天皇側も何としても吉備の国を平定したかったわけです。まさに、目の上のたんこぶでした。そして、とうとうその時がやってきたのが、大岐別彦の御事の時代だったというわけです。そういった時代背景があったのですね。

正統竹内文書伝える3人桃太郎

正統竹内文書によれば、桃太郎として知られる役割を果たしていたのは3人だったとされています。先ほど述べた通り、大きびつ彦の御子も後続だと言っていますが、それだけでなく、同じ時代に「きび」という名前がつく人がたくさんいたことが分かります。

孝霊天皇の兄には大きびの諸進の御子がおり、これが軍事長官として「きび」と本格的に戦った人物です。彼らが「みんなできびへ進軍する」という勢いを感じさせる名前を持っていたのですね。また、孝霊天皇の子供には、先述の大きびつ彦の御子と若彦武きびつ彦の御子がいました。3人が力を合わせてきびを制圧したことから、彼ら全員が桃太郎と言えます。しかし、最終的には若彦武きびつ彦の御子が桃太郎だとされています。ちなみに、彼は大和武の祖父にあたります。

さらに続く世代でも「きびつ彦」という名前が引き継がれており、そのことから「きびつ彦」は世襲名だということが伺えます。同様に、「神の名前は役職名で、世襲姓だ」という言い伝えも存在しています。

犬猿雉の元なった一族

次に、3人の家来に関してですが、犬飼い師、猿召し、鳥取一族がきびつ彦の配下についたとされています。これが犬、猿、キジが家来となった由来です。彼らには領地を与えることを約束し、それがきび団子のメタファーにつながっています。

また、最後の戦いで猿召しが裏を切ったことにより、きびが平定されたと言われています。この出来事が「裏切る」という言葉の語源となったとも言われています。

当時の背景として、軍事的な要素も関与していたことが分かります。日本では鉄素材を入手するには朝鮮から輸入するしかなかったのですが、きびでは単鉄技術が進んでおり、鉄製品を作っていました。このため、軍事力を強化するにはきびを手中に収める必要があったのでしょう。戦力は鉄の武器を持っているかどうかで大きく変わる時代でしたから、その意味でもきびを制圧した意義は大きかったと言えます。

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