竹内文書が偽書と呼ばれる理由竹内睦泰の指摘

竹内文書

竹内文書は、古代日本の歴史を描いた文書でありながら、その内容の信憑性については長年にわたり議論が続いています。その中でも、竹内睦泰氏の指摘により、竹内文書が「偽書」と呼ばれる理由について考察してみます。

茨城系竹内文書の系譜の疑問

『竹内文書』というと、通常、茨城の竹内家が所蔵する『天津教 文書』を指します。しかし、その内容は非常に特異で、SF小説のように感じる部分もあります。

その信憑性については、茨城竹内家の系図を見るだけで明らかです。西暦に直した場合、系図には数十か所もの誤りが見受けられます。また、生年月日を西暦に直すと、年齢が間違っていることが1か所存在します(詳しくは「茨城『竹内文書』系図における年齢の矛盾」を参照)。

さらに、驚くべきことに、親や祖父、曽祖父よりも先に生まれたとされる人物が20人近くもいます。これは一覧表をよく見て比較すれば明らかです。

次に、茨城の竹内家の系譜を見ていくと、戦前と戦後の原文を比較すると、何人かの人物が代数や母の名前に違いを見せています。まず、13代目の紀竹内古麿臣さんについて考えてみましょう。西暦に換算すると、彼は532年に生まれています。これは、彼の曽祖父が生まれる前のことです。さらに、彼の父親が9歳の時に生まれたとされており、また原文では13代ではなく14代と記されています。

次に、14代目の紀竹内真麿さんについて見てみましょう。彼は552年に生まれたとされていますが、母親の名前については二つの異なる伝承が存在します。また、歴史的には舒明天皇の妃であるはずの田眼内親王が母親とされています。さらに、原文では14代ではなく16代と記されており、これもまた疑問を呈しています。

最後に、15代目の紀竹内池上赤池大麿さんについてですが、原文では156代とも16代とも記されています。つまり、茨城の『竹内文書』の信憑性については、伝承者自身の出自に疑問が投げかけられているのです。

戦後に系図に追加された人物が存在するため、現在の混乱が生じています。例えば、紀竹内越中守是忠という1代目の人物は、戦後に出版された『神代の万国史』の2版で初めて登場し、戦前の系図には存在しませんでした。

同様に、256代目の紀竹内赤池神明三郎隆信も戦前の系図には記載がありませんでした。さらに36~36代は戦前にダブって数えられていましたが、戦後の『神代の万国史』2版でダブりが解消され、代わりに16代と2代が追加されました。結果として、最後の巨磨が61代から60代に減らされています。

これらの事実から見て取れるように、系図が偽作でない限り、このようなことは起こり得ません。つまり、茨城竹内家の系図は「偽物」であるという結論に達します。

さらに、茨城竹内家には何人もの越中守が存在しますが、正史に記載されている通り、竹内家で越中守になった人物は実際には一人も存在していません(「越中守一覧」資料を参照)。

茨城系竹内家伝承の矛盾

ここでは、茨城県の竹内家が伝えている「竹内文書」についてのいくつかの矛盾点について考察します。

まず、「竹内文書」には、平群真鳥の時代に神代文字が漢字に書き換えられたと記されています。しかし、公にされた文書を見ると、それは神代文字のままで、これは矛盾しています。

日の丸のは発祥は幕末のはず

また、記されている神代文字の隣には日の丸が描かれていますが、この日の丸は幕末の薩摩藩の軍旗であり、時代的に不適切です。

さらに、1867年の万国博覧会には、第15代将軍徳川慶喜の弟である徳川昭武が参加しました。このとき薩摩藩も出席し、薩摩琉球勲章を各国の高官に授与しました。一方、江戸幕府はこのとき勲章を持っていませんでした。つまり、各国は薩摩藩を幕府よりも上位とみなしたのです。

天皇という称号の矛盾

また、茨城の竹内家には、「天皇」という称号が神々の名前に多く見られます。しかし、「天皇」は天武天皇の時代から使用され始めた称号であり、茨城の竹内家が国家神道の下で天皇を称えるために使ったと考えられます。これらは偽書であることが明らかであるため、それがかえって不敬な行為であると考えられます。

三種の神器の捏造

茨城竹内家が所有するとされる神宝の正体について明らかにしましょう。これらの神宝は、神代に作られたものではありません。実際には、鋳物師である工藤源吉さんが製作したものです。彼は福島県磐城郡平町に住んでいました。

神宝として称されていた三種の神器は、大正13年11月に茨城竹内家から工藤源吉さんに注文されました。これらの神器は、「神日本剣」として売り出され、数百円の拝観料を徴収していました。その出来栄えは非常に良かったため、翌年の大正14年2月には再度、工藤源吉さんに注文が入り、「二面鏡」と称する鏡も製作されました。

したがって、茨城竹内家の神宝は神代のものではなく、大正時代に作られたものであることが分かります。これは内務省警保局保安課の資料から確認できます。

竹内巨麿の出自と正体

竹内巨麿について最後に触れましょう。

巨麿は庭田大納言の末裔だと主張したり、藤波家の子孫だと自称したりしていましたが、実際には明治時代まで、彼の名前には「竹内」の「た」の字すら含まれていませんでした。「竹内」の名を使い始めたのは大正時代からで、「宿禰」ではなく、「宿根」を名乗っていました。なお、正統な竹内家には、「巨磨」と名付けられた人物は存在しません。

彼の実際の出生は、明治7年に富山県上新川郡新保町の権四郎の未亡人、杉政みつと石川県の森山勇吉との間に生まれた私生児でした。後に富山県の農家、竹内庄蔵に養子として引き取られ、岩次郎と名付けられました。養父母が亡くなった後、彼は一人で上京して御嶽教に入信し、後には独立して合資会社天津教を設立しました。

このように、巨麿は竹内家の血を引いていないし、口伝も受け継いでいません。では、なぜ彼が竹内家の伝承を(誤っているとはいえ)一部持っていたのでしょうか。それは、後南朝の神宝が明治時代に盗まれ、その犯人である斎藤慈教がそれを巨麿に売却したのではないかと推測されています。巨麿自身が警察で「古文書は射水郡で発掘した」と供述しています(実際は盗掘でした)。

巨麿らは古文書を書き写していましたが、多くのサンカ文字が使われていたこと、また実父の職業から判断して、彼の本当の出自は山の民=サンカであった可能性が高いと考えられています(巨麿が盗掘したものは戦災でほとんど失われました)。

本当は何も知らなかった竹内巨麿

つまり、彼らが天皇家や竹内家の系図や年代について全く知らなかったという事実は驚きです。天皇家や竹内家は、サンカという敵対関係にあるともいえる存在でした。それにもかかわらず、これらの家系を崇拝し、不敬罪にされ、竹内の名前に傷をつけたというのは一体どのような因縁だったのでしょうか。興味深いことに、竹内巨麿が生きていた時代は、第二世武内宿禰が予言した199年間と一致し、正統竹内家では欠世3世とされる時代と一致します。

まとめ

以上のような理由から、竹内文書は「偽書」と呼ばれ、その信憑性は広く疑問視されています。しかし、これらの指摘が全て正しいとは限らず、竹内文書についてはまだ未解明の部分が多いとも言えます。歴史的真実を探求するためには、引き続き各種の調査や研究が必要となります。

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