竹内文書が伝えるキリストと日本の関係

竹内文書

竹内文書とキリストの関連性について深く探求しましょう。これは、日本の歴史とキリスト教の交差点にある興味深い話題であり、新たな視点を提供するかもしれません。竹内文書は、日本の古代史を独自の視点から解釈する一連の文書であり、その中にはキリスト教の影響も見られます。

一方、キリスト教は世界各地で広く信仰されている宗教であり、その教えは様々な文化と歴史に影響を与えてきました。これら二つの異なる視点がどのように交差し、互いに影響を与えたのかを理解することは、歴史的な視点から世界を理解するための重要な一歩となるでしょう。

イエス・キリストの真実

イエス・キリストに関する記録は、神倭朝の第11代、垂仁天皇の時代に残されています。この時代、イエスは弟の身代わりにより十字架から逃れ、日本へと来たとされています。彼は八戸の地、戸来村に居を構え、生涯を全うするまでの118年間を過ごしたとされています。この記録は『神代の万国史』に記されています。

しかし、イエスに関する詳細な研究は山根キクという女性によってなされました。山口県萩市生まれの山根キクは、明治26年に生まれ、14歳の時にキリスト教を受け入れました。その後、共立女子神学校(現在のフェリス女学院)を卒業し、婦人運動に身を投じました。しかし、皇祖皇太神宮にイエス・キリストの真実を伝える文献があることを知り、キリスト教の日本渡来説を研究するようになりました。

彼女の研究成果は、『光は東方より』(1937年、日本と世界社)と『キリストは日本で死んでいる』(1958年、平和世界社)にまとめられています。これらの著作を通じて、皇祖皇太神宮に伝わるイエスの生涯を詳しく知ることができます。

イエスは、神倭朝の第十代崇神天皇が即位してから六十一年後の一月五日、ヨセフとマリアの長男としてエルサレム郊外のベツレヘムで生まれました。通常、キリスト教ではイエスの誕生日を12月25日、つまりクリスマスとされています。しかし、神宮の文献によれば、これは誕生日ではなく、昇天した日、つまり彼が亡くなった日であると伝えられています。

また、イエスの死についても、キリスト教と神宮の古文献で異なります。キリスト教の「新約聖書」では、イエスは神の子としての教えを説いた罪で、ゴルゴダの丘で磔刑にされたとされています。イエスが亡くなった時期は彼の30代前半で、西暦はイエスの生まれた年を基準にしています。ただし、少しの誤差があり、今では西暦28年から30年頃だと考えられています。

聖書にはない古文献によるキリストの記録

キリスト教では、イエスは一度死んだ後、神の力により復活し天に昇ったとされています。しかし、神宮の古文書によれば、イエスは日本で118歳まで生きていたとされています。

キリスト教の聖典『新約聖書』には、イエスが幼い頃にヘロデ王の幼児虐殺から逃れるために町を離れたエピソードや、エルサレムの神殿でユダヤ教の司祭と議論して勝利した話などが描かれています。この部分は神宮の古文献と一致しています。しかし、神宮の古文献には、聖書には存在しない記述もあります。これは、キリスト教研究者の山根キク氏が長年疑問に思っていたことに関連しています。

その疑問とは、イエスの生涯に存在する「空白の期間」についてです。『新約聖書』には、イエスが子供の頃にユダヤ教の聖堂で司祭と議論した後から、成人して洗者ヨハネの洗礼を受けて神の教えを説くようになるまでの間、つまり13歳から30歳までの間の記録がありません。

この「空白の期間」は、イエスが何をし、どこで過ごしていたのか、聖書では一切言及されていません。そのため、聖書を読むと、イエスが突然成長して布教活動を始めたように見えます。イエスはこの期間に何をし、どこで過ごしていたのでしょうか?

来日したイエスキリストの足跡

山根キク氏によると、神宮の古文献が、聖書に記載されているイエスの人生における空白期間の謎を解く手がかりを提供しているとのことです。

神宮の古文献によると、聖書に記載されているイエスの人生の空白期間に、イエスは日本に滞在していました。その期間中、イエスは皇祖皇太神宮で神主・武雄心親王の弟子として様々な神の教えを学んでいたとされています。

18歳の時に日本を訪れたイエスは、海路を通じて宝達港に到着したと記録されています。その頃、神宮と世界をつなぐ航路が存在していた可能性があります。

神宮での学びの中で、イエスは神秘術、文学、祭祀、歴史、天文学、そして祭政一致の根本を学びました。聖書に記されているイエスによる奇跡の数々、死者の蘇生、らい病患者の癒し、湖上を歩くといったことも、神宮で学んだ知識の一部だったのかもしれません。

イエスが日本で過ごした時間は約5年に及びました。その時のイエスの姿を描いた絵が皇室画家、彦太人形図文命によって制作され、現在も神宮に伝えられています。王冠を戴き、王の衣装を身にまとったその絵は、気品に満ち溢れています。

イエスは厳しい修行を終え、天皇から国王の印を授かり、また、恩師・武雄心親王からはヒイロカネで作られた宝刀を贈られました。これらを持ち、彼は神の教えを母国で伝えるために帰国しました。

彼が日本を離れる際、天皇との間で一つの約束が交わされました。「生きて再び戻ってくる」という約束です。おそらく天皇は、母国で待ち受けるイエスの運命を予見し、この約束を求めたのでしょう。この約束を守るため、後年イエスは困難な決断を迫られます。

イエスが初めて日本に来たのは18歳の時で、その後5年間滞在したとされています。つまり、彼が日本を出たのは23歳の時で、聖書の記録が再開する30歳までの間には、まだ7年間の空白期間があります。

『竹内文書』によれば、イエスは母国へ帰る途中、イタリアのモナコに寄りました。このまだ若き日のイエスは、学びの精神に満ちており、この期間にイタリアだけでなく、世界各地の土地や人々、文化を見て回ったと考えられます。

山根キク氏は、神宮の記録と出会い、その価値を強く感じ、イエス・キリストの真実の伝記をまとめることを決心し、その研究に深く没頭しました。彼女が神宮に導かれたのは、神の意志だったと思われます。なぜなら、山根氏が最初の研究書『光は東方より』を出版したのは昭和13年ですが、実はその前の昭和10年に、祖父・巨麿が青森県戸来村(現在の三戸郡新郷村戸来)でイエスの墓を発見していたからです。つまり、山根氏にとって、イエスについての古文献の記述が正しいことを証明する物証がすべて揃った時点で、神宮を訪れていたのです。

イエスは磔にされていなかった。

まず、神宮が弾圧を受け、重要な記録が失われてしまった後のことを考えると、山根氏や酒井氏がこの時期に神宮を訪れ、詳細な記録を残してくれたことは、まさに神がかり的な出来事だと感じます。

それでは、イエスの生涯について再度話を進めていきましょう。イエスがイスラエルに戻り、神の教えを伝えた後の彼の運命は、新約聖書に詳しく記述されています。そのため、ここでは詳細を省略します。しかし、彼が最終的に罪に問われ、十字架にかけられることになります。

一般的には、イエスが十字架にかけられ、死後に奇跡的に復活するという話がよく知られています。しかし、神宮の古文献によると、実は十字架にかけられたのはイエス本人ではなかったと記述されています。

では、イエス本人ではなく、十字架にかけられたのは誰だったのでしょうか。聖書には記されていませんが、イエスには容姿がそっくりな弟がいました。その弟の名前はイスキリで、イエスと同じ年の12月6日に生まれました。つまり、彼はイエスと年齢がほとんど変わらない、双子のような存在だったのです。

実は、身代わりとなる提案はイスキリからイエスへと持ちかけられました。これは、イエスが天皇と「生きて日本に戻る」ことを約束していたことを、イスキリが知っていたからです。天皇との約束を破ることは許されません。その重大さを二人は理解していました。しかし、身代わりになるということは、自分の代わりに弟が命を絶つことを意味します。その重い決断に、イエスは大いに苦悩したことでしょう。そして、結果としてイエスは弟の提案を受け入れ、再び日本への旅を決定しました。

イエスとその弟の墓は日本にある

その後のイエスの旅路は多くの国々を経て日本にたどり着きました。北欧、アフリカ、中央アジア、シベリア、アラスカ、北米、南米、再びアラスカを経て、最終的には日本の青森県八戸に到着しました。この旅の間に、イエスは世界各地で14人の弟子を得ています。これらの人々は聖書が伝える十二使徒とは別の人々です。

その後イエスは日本名「八戸太郎天空坊」と名乗り、自分の身代わりとなったイスキリの墓を作り、日本まで持ってきた両親の骨(弟とほぼ同時期に亡くなった)から御神骨像を作ったといいます。

イエスはこの両親の骨から作った「ヨセフとマリアの御神骨像」を神宮に奉納す ることを希望しましたが、すぐには認めてもらえませんでした。この願いが聞き入 れられたのは、なんと奉納を希望してから六十六年もたった時だったといいます。 すでにイエスは一〇五歳の高齢となっていました。

これほど長い年月を経て奉納が認められたのは、イエスの恩師・武雄 心親王(たけおごころの働きかけがあってのことだったといいます。

その後、一一八歳で天寿を全うしたイエスは、自分の身代わりとなって十字架に 掛けられ亡くなった弟イスキリの墓の隣に葬られました。

今も戸来村へ行くと、巨麿管長によって再発見されたイエスの墓「十来塚」(へらいづか)と、イスキリの墓「十代墓」(じゅうだいぼ)が仲良く並んでいるのを見ることができます。

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