竹内文書に記された日本にあるピラミッドの存在

竹内文書

最近、テレビでエジプトのピラミッドに関する特集を見ました。その数々の謎はまさに古代のロマンを感じさせます。その中でも、日本にもピラミッドが存在するという話に私たちは興味を引かれました。実は、日本のピラミッドについての文書が存在するのです。

ピラミッドについて

ピラミッドについて簡単に説明します。ピラミッドは、石やレンガで作られた巨大な四角錐の建築物で、エジプトや中南米のものが特に有名です。建設方法はまだ明らかになっておらず、古代エジプトでは王や王族の墓として使われていました。

幾何学的な四角錐だけでなく、円錐や階段型など、さまざまな形状のピラミッドが存在します。私たちが一般的にイメージする四角錐のピラミッドは、古代エジプトの第4王朝のスネフル王の時代に初めて登場しました。

この四角錐のピラミッド、別名「神聖ピラミッド」は現在もエジプトに存在し、観光名所となっています。スネフル王の息子、クフ王はさらにギザに大ピラミッドを建て、その子孫もギザに巨大なピラミッドを建設しました。これら三つのピラミッドは「ギザの三大ピラミッド」として知られています。

クフ王のピラミッドが一番大きく、その後のピラミッドは徐々に小さくなりました。しかし、第五王朝と第六王朝時代のピラミッドには、ヒエログリフで記された「ピラミッドテキスト」が刻まれていることで知られています。ピラミッドの建造は、紀元前16世紀にヤフメス一世が小さなピラミッドを作ったことを最後に終わりました。

エジプトと中南米のピラミッドについてお話します。エジプトのピラミッドはよく知られていますが、実は中南米でもピラミッドが建設されていました。これらのピラミッドは、紀元前1000年から1524年頃のマヤ文明の時代に頻繁に建設されました。

しかし、中南米のピラミッドはエジプトのものとは異なる特徴があります。中南米のものは神殿の基盤としての性格が強く、四角錐の形をしていませんでした。また、神殿に向かう階段があることが特徴的です。これに対して、エジプトのピラミッドは内部の空洞が特徴です。

このように、ピラミッドは地域によって造られた目的や形が異なるのが特徴です。それでは、この話をもとに、日本のピラミッドと竹内文書の関係について説明していきましょう。

ピラミッドとは、一般的には石やレンガで作られた四角錐形の建造物を指します。その建造方法は未だに解明されていません。

古代エジプトの王族は、墓として様々な形状のピラミッドを建てました。その中で、我々が一般にイメージするピラミッドの形状は、第4王朝のスネフル王の時代に初めて現れました。

スネフル王は、側面が二等辺三角形の「神聖ピラミッド」を完成させ、これは現在もエジプトの観光地・イブームに残っています。その後、スネフル王の息子クフ王はギザに大ピラミッドを建設し、その子孫も同じくギザに大きなピラミッドを建てました。これらが「ギザの三大ピラミッド」で、最も大きいものはクフ王が建てたピラミッドです。

しかしこの後、ピラミッドの建設は徐々に衰退し、最後に建てられたピラミッドは紀元前16世紀のヤフメス一世の時代です。

なお、エジプト以外にも中南米にピラミッドがあり、特にメソアメリカと中央アンデス地域やマヤ文明では、ピラミッドの建設が盛んでした。ただし、これらは神殿の基礎として使われ、その形状はエジプトのピラミッドとは異なります。

以上が、ピラミッドに関する基本情報です。

日本のピラミッド

エジプトのピラミッドが日本が発祥という説が存在するのです。それは一見すると驚くかもしれませんが、実は戦前から一部の人々の間で注目を浴びていた説なのです。

この説を立証したのは、竹内清守と堺勝時という二人の研究者です。竹内は、「竹内文書」にて予言したピラミッドの存在を、堺が現地調査により証明し、日本のピラミッドが次々と発見されました。

竹内清守の生い立ちは一部不明ですが、1936年に特攻警察に捕まった際の資料により、彼の生涯を短く説明します。1874年に富山県で生まれた竹内は、遺宿職人見習いとして働きながら御竹卿に影響を受け、自分で教団を立ち上げることになります。

1910年に公開した「竹内文書」は天津教の教えの一部となり、その中には日本のピラミッドが記載されていました。これを元に、堺勝時が実地調査を行い、多くの日本のピラミッドを発見しました。

堺は1874年に山形県で生まれ、キリスト教徒として過ごしました。1898年に渡欧し音楽を学び、帰国後は東京商科学校を設立しました。1920年代にはユダヤ人に関する研究を始め、日本人の祖先は古代イスラエルの10種族の一つであるという説を唱えました。

堺さんは1929年に竹内文書を見て強い感銘を受け、1934年には広島県の足立山がピラミッドであると提唱しました。彼の説は新聞に掲載され、広く知られるようになりました。1935年には、彼のピラミッド説を詳しく説明した書籍「太古日本のピラミッド」を発行しました。

その後も堺さんは、さまざまな山が実はピラミッドであるという発見を次々としていきました。例えば、1934年9月には日田高山で平らな頂部を持つピラミッドを発見しました。その後の数十年間で、彼の発見したピラミッドは10以上に増えました。

1980年代には、彼の提唱した日本のピラミッド説により、国内でピラミッドブームが巻き起こりました。堺さんは日本のピラミッドがエジプトや中南米のそれとは異なると主張し、その独自の定義を提供しました。これらのピラミッドについての興味深い話題は、多くの人々の心を捉えています。

日本のピラミッドとは具体的には、次の特徴を持つ半人工的な構造物を指します。

  1. 自然の力を利用し、石や土で造られている。
  2. 神を祀ることを目的としている。
  3. 周囲には配石や石碑が存在いる。
  4. 形状は左右対称の二等辺三角形で、山頂部には石組みの装飾がある。

これらの特徴を持つ日本のピラミッドは、一般的な山と見分けがつきにくいことがあります。これは風化による影響だと説明されています。

例として、秋田県の北部、角館市に位置する黒森山を挙げてみましょう。この山は、山頂に元宮神社が鎮座し、山麓には縄文時代の遺跡が点在しています。地元の人々には「クロマンタ山」という名で親しまれています。この名前は、アイヌ語で「神々のオアシス」を意味する言葉に由来しています。

黒森山のピラミッド

黒森山は標高280メートルの小山で、その塩水系の特性からピラミッドではないかという説が唱えられています。この山は、約1000年前に吹裂山が起こったとされています。

992年から1994年にかけて、同志社大学の研究グループが主導する黒森山総合調査団は進んだ技術を使い、黒森山の調査を行いました。その成果から、黒森山が自然発生的な山ではなく、人間が作り上げたものだと判明しました。

さらに詳しい調査の結果、山の麓から頂上にかけて7から10段の階層が存在し、地下には未知の空洞が存在することがわかりました。これは何者かが埋葬されている可能性を示唆しています。

黒森山周辺からは、石器や土器などの遺物も見つかっています。黒森山の形状は、中南米の階段型ピラミッドに似ていますが、埋葬の可能性を考慮に入れると、エジプトのピラミッドとも共通点があります。その中に埋められているのは一体誰なのでしょうか。まだ明らかにはなっていませんが、黒森山周辺には縄文時代の遺跡や環状列石が多く存在するため、祭祀の目的で作られた可能性が高いと考えられています。

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